水曜日の今日、午前中は家で会議に出て、11時すぐに出社。
今日から寒い。
一度、玄関を出て、コートを取りに戻った。
会社に老眼鏡をもっていくのを忘れてしまった。
作業がはかどらず、4時過ぎにオフィスを出て、家に戻る。
しかし、帰宅後すぐにコンタクトを外してしまい、ゴルフの練習はなし、また、仕事もメガネだとちょっと近くが見づらく、あまりはかどらず。
代わりというわけではないが、「夜と霧 新版」を読了。
高校生の頃に本を買って読んだが、その本が実家に見当たらない。おそらく友人に貸して、そのままかえってきていない。
以下、心に残った部分の書き出し。
「人間にはなんでも可能だというここの驚きを、あといくつかだけ挙げておこう。収容所暮らしでは、一度も歯をみがかず、そして、あきらかにビタミンは極度に不足していたのに、歯茎は以前の栄養状態のよかったころより健康だった。(中略)人間はなにごとにも慣れる存在だ(後略)」
「一心不乱に、想像を駆使して繰り返し過去の体験に立ち返るのだ。たいした体験ではない。過去の生活のありふれた体験やごくささいなできごとを、繰り返しなぞるのだ。そして、そいういう思い出は被収容者の心を晴れやかにするというよりは、悲哀で満たした。」
「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかとう、人間としての最後の自由だけは奪えない(後略)」
「ラテン語のフィニス(finis)には、よく知られているように、ふたつの意味がある。終わり、そして目的だ。ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。」
「並みの人間である私たち、凡庸な私たちには、ビスマルクのこんな警告が当てはまった。『人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあ、これからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう』 これは、こう言い替えられるだろう。『強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、私の真価を発揮できるときがくる、と信じていた』 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。」
「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。(中略)まともな人間だけの集団も、まともではないだけの人間の集団もない。」
「不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるのには時間がかかる。そして、こういう人間を常識へとふたたび目覚めさせるために、なんとかしなければならない。」